「当たり前」という感覚の恐怖

先日、家族で初詣に行ってきた。

毎年、元旦を避けて行くのである程度
人混みは回避できるんだけど、今年はそれでも
人が多かったように思う。

去年1年、お守りしてもらっていた車のお守りや学業のお守り
神棚にある神宮大麻・氏神様・崇敬神社の御札などを持って
毎年行く神社の古札をお返しする櫓へお戻しする。

この通例の家族行事が今年も年始から
家族全員健康で寄れたことを本当に幸せに思う。

子どもたちも小さな頃からの行事なので
勝手知ったる様で、神社へは一礼して入り
参道の端を歩き、お願いではなくご報告をしてと
もう何も言わなくても自身でキチンと行ってくれる。

世の中には「当たり前」という言葉があるけど
この「当たり前」の一つに神社などの参拝で
最低限行うことや、どういった気持ちでお参りするのかが
身についているのは親として実は誇らしく思っている。

その昔、まだ奥さんと付き合っている頃の、とある週末
奥さんの実家にお呼ばれされ昼食を食べに行ったことがある。
「お邪魔します」と玄関で靴を脱ぎ入ろうとすると

奥さんのお父さんに呼び止められた
「玄関で靴を脱ぐというのは、その家に迎え入れてもらうのか
攻撃をしに来ているのかを靴の脱ぎ方に現れるんだよ。
見てごらん、君の靴はつま先が家の中に向いてるよね?
これは矢を向けていると同じだから、靴を脱いだら一旦しゃがみ
自分の靴を揃えてかかと側を玄関に置きなさい。
そのほうが、この家としても君を受け入れやすいから」と言われた。

その時は、あぁそういうもんなんだな…と軽い気持ちで聞いていたが
今となっては結婚を考えている彼女の家で開口早々
相手の父親、言ってみたらラスボスにそんな事を言われるなんて
顔から火が出る程恥ずかしいことだし、なんなら彼女の顔に泥を塗ってしまっていた。

こういった些細な教訓は「当たり前」に出来る人と出来ない人とが
世の中には存在するし、人それぞれの「当たり前」がある。

でも、そういった事を真摯に受け止めて彼女が自身の両親に
自慢できる資質を持つってことも相手を想う大きな事柄だと思った。
そして我が家では、家族全員「当たり前」に玄関では靴は揃えてあがる。

彼女は好きだけど相手の両親は関係ないと聞くこともあるけど
こういった古き良き礼儀作法は自分の人生のステージが上がるほど
周りはよく見ているし、そこで「当たり前」であるかは
本当に人として判断される大きな要因だったと今ではわかるし
その「当たり前」達が僕を多く助けてくれたこともある。

結婚して、しばらく経ったある日
奥さんが僕の靴を後で揃えていてくれたことを知り
本当に頭が下がる思いというか、この人の大きな愛で
僕は生かされてるんだなっとも思った。

本当に僕は、この奥さんと一緒に居れて幸せだ。

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